♯31 整髪剤とタバコの匂い
十四で板前を目指してから、辛い修行や、爪に火を灯すような生活や、伴侶の死、娘の出奔と色んなことをくぐりぬけながら、何とか守ってきた自分のちいちゃいお店。
聖域のようなその空間に充満するきつい整髪剤とコロンとタバコの匂い。
「じじい。金払われへんねんやったら、早う、この店出ていけよ。」
「こんな店、借金のカタにもなれへんけど、シルバー割引で負けといたるわ。」
「そうそう、こう見えても僕らお年寄りには親切やねんで。」
口元に歪んだ笑いをはりつかせて、おじいさんに迫る男たち。
カウンターの椅子にふんぞり返ってた一人が一段と声高に笑いながら、その土足の足をひょいっとカウンターの上にあげた。
カウンターはお店の魂がこもってるんやと、おじいさんが毎日清めるように手入れしてたその白木のカウンター。
そこに真っ黒の靴墨がぬめるようについた土足の足がのっけられてる。
ブツン。
捨て男の頭で何かが切れる音がした。
気いついたら男達に、しゃにむにおどりかかってた。
うおおおおおと吠えるような声出しながら。目の奥にどんどん広がってく赤い色。
ああ、血い出てるんかも俺って、思いながらも、無茶苦茶に振り回してた手を、後ろ手にぎりぎりとねじあげられた。
このガキ、手ぇ使いもんにならんようにしてこますぞという声が遠くに聞こえる。
はあ、やっぱりプロはちゃうなあと遠なってく意識の中で捨て男は思うたらしい。
どれくらい意識なくしてたかわからへん。
ガタガタいう音で捨て男は目が覚めた。
店の奥の座敷で顔に冷えたタオル当てて寝かされてた。
暗い中、目をこらそうとするけど、一向に目が慣れへんのは、目が腫れ上がってるかららしい。
手で自分の顔をなぞってみるけど、触ってる感覚も触られてる感覚もはっきりせえへん。
まいったな。
男前がわやくちゃやがなと呟きながら起きあがる。
背中から激痛。
口の中に鉄の味が広がる。
はあ、顔だけやのうて、あちこち、わやくちゃか。
そやけど、おじいはんはどうしたんやろう、無事なんやろか、もしや俺のせいで、おじいはんまでボコボコにされたんとちゃうやろかと不安が喉からせりあがる。
ドクドクと嫌な音をして自分の血が耳のそばで逆流するような気がした。
ふらふらしながら必死で立ちあがった捨て男が、転がるようにして勝手口から店を覗いたんと、おじいさんが椅子を蹴ったんはほとんど同時やった。
自慢にしてた店の天井を通る丸太の太い梁からロープが垂れてた。
おじいはんっと叫ぶようにして飛びつき、その身を抱える。
すぐやったはずやのに、もう泡をふきながら半開きになったおじいさんの口からごぼごぼと流れでる吐しゃ物には、血も混じってる。
ぽたぽたと不吉なしみがおじいさんの前掛け、その真っ白な前掛けにとぶ。
白目を剥いたおじいさんを腕にかき抱えながら、永遠のような気持ちで救急車が来るのを待った捨て男。
一命はとりとめた。
ほんでも、おじいさんの心はそのままどっかに行ってしもた。
三日して意識が戻った時には、捨て男のことも、お店のことも、自分のことさえも、おじいさんの瞳にうつることはなかった。
カウンターに書置きがあった。
毎日のお品書きで見慣れたおじいさんの筆書き。
最後の最後まで背筋が伸びたような字。
『 研二へ、
わしの命で帳尻合わせてくれると言うから保険に入った。
こんな年寄りの命で堪忍してくれるんやったら、くれてやる。
わしだけの店やったら惜しゅうない。
この店をどうしてもお前に残してやりたかった。
たった一人の孫のお前に。
他に何にもしてやれん。許せ。
もう一回、一緒に店に立ちたかった。
それが心残りと言えば心残りや。
包丁の手入れは怠るな。
どんな料理にも心を込めろ。身体をいとえ。
そして、もし娘に、お前のおかあさんの小百合に会うことがあったら伝えてくれ。
元気に暮らせと。
最後にもうひとつ。
お前は悪うない。誰も悪うない。ちょっと運が悪かっただけのこと。
胸はって生きろ。
祖父、服部幸造より』
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コメント
涙が出ました。。
投稿: もんぴぃ | 2008年4月25日 (金) 19時27分
おじいさん、命と引き替えに借金を返そうだなんて…
もうなんと言っていいのか言葉が出ません。
涙、涙です。
投稿: Bikkyママ | 2008年4月26日 (土) 01時35分
泣かないはずないはなしです。
涙でました。
投稿: かなりん | 2008年4月27日 (日) 00時37分
最近ネットのつながりが悪くて…。
ためていた分を一気に読みましたが…泣けました…。本当にだんだん引き込まれてゆきます。
おかんの’聞いてほしいこと’はこれだったの???ねぇねぇ???
気になります…!!!!!
投稿: | 2008年4月27日 (日) 11時09分
↑名前入れるの忘れた!
投稿: じゅんじゅん | 2008年4月27日 (日) 11時11分
悲しゅうなった
コメントに何を書けばいいのかも分からなくなった。
投稿: こと。 | 2008年4月28日 (月) 01時32分
コメントありがとうございます。
実はこのシーンは書きながらも
胸がつまる思いがしました。
またお立ち寄りいただければ嬉しいです。
投稿: 咲乃月音 | 2008年4月28日 (月) 13時41分