ほんでも、その日は会話がやっぱり止まりがちで、
まだハチも心配やし
と、ほんまのことが言いわけに聞こえるような雰囲気の中、
早々と店を出て、センセイの車で家に向かう。
綺麗な夕焼けの名残が遠くの空に薄紫色のすじを残してる。
それを見上げるようにドアにもたれたら、ひっそりとお月さんが見えた。
まだ夕暮れの気配が残る薄い空に浮かぶお月さんが見えた。
間違うて、うすく切りすぎた大根のようなお月さんが。
目をこらせばこらすほど夜の中にまぎれようとしてるような。
そんなお月さんを見上げてたら、何でか知らん、捨て男のしてた白い前掛けが頭に浮かんだ。
隅にちいちゃくお店の縫い取りのあったあの白い前掛けが。
少し冷んやりしたキスの後、
ほんだら、またすぐに
と言うて、トンネルの手前でセンセイの車をおりた。
明るすぎるほどの蛍光灯の明かりの中(昔はこんなに電気がついてなくて、よう痴漢が出た)コンクリートの壁に自分の靴音をひびかせながら歩く。
くぐりきったところで振り向いたら、いつものように見送ってくれてたセンセイがパパンと短いクラクションをならしながらUターンしてく。
この間の晩はトンネルのこっち側まで来て急に縮まったあたしとセンセイの距離がまた元にもどったみたい。
淋しいような、ほっとしたような。
距離をとってるんはあたし。
何でやろ。
何かまだこわいような気がして。
こわい?
それこそ何がこわい?
自分の気持ちやからと言うて、何でもわかるわけやないんやなと思う。
この頃のあたしの心の中はいつも、ちょっとピントが甘い写真のようや。
前はもっと、くっきり生きてたような気がすんのに。
最近のあたしはさっきの窓からのお月さんみたいに、淡淡とぼやけていってしまうような。
夜の空気の中を漂うような心地で家に向かって歩いてたら、遠く後ろから呼ぶ声。
「月ちゃあああああん。おかえりいいいい。」
オカンや。
振り向くと、遠くで大きく手をふるオカン。
白い手がひらひらと蝶々みたいにゆれてる。
足元では引き綱をぐいぐい引っ張って全身でこっちにこようとしてるハチ。
あ、夕方の散歩やったんや。
今日はえらい遅いなあ。
「今出てきたとこやねええええん。
月ちゃんも一緒においでよおおおお。」
両手をメガホンにして叫ぶオカンの方へ慌てて走ってく。
よかった。
ハチのこと、実はほんまに気になっててん。
本人(本犬?)は、ほんまに具合悪かったん?っていうぐらい元気やけど、まだ、風呂場でのことがあって間もないのに、ほったらかしてセンセイと会いに行くやなんて。
オカンとハチにようやく追いつく。
わぁ、今日はねえちゃんとおかあちゃんと二人も一緒や、
うれしい、うれしい、
僕どうしょうっ
とでも言うようにピョンピョンと、子ヤギのようにとび跳ねるハチ。
さっきまでちょっと凹んでた気持ちがそんなハチの姿に嘘みたいにふくらんでく。
よしよしと頭をぐりぐりしてやり、二人と一匹で歩きだす。
目の前をこわれた戦闘機みたいにジグザグに飛んでく蝙蝠の影たち。
ちいちゃい頃から見慣れた光景。
昔、まだ小学生やったとき、遠くの街から引っ越してきた転校生がこの蝙蝠を見て泣いてこわがったことがあったなぁと、ふと思いだす。
人間っておもしろいよなぁ。
最初からずっとそこにあるとそれが当たり前のように思える。
父親がいないことも、オカンとの二人暮らしも。
ちょっとだけやけどお酒を飲んでたせいか、いつもより息をはずまして田んぼに続く坂をのぼってく。
ひゃっほう、ひゃっほう!
田んぼ、田んぼ、田んぼ
と、毎回ようそんなに喜べるなあっていう勢いのハチを放してやる。
弾丸のように走っていく姿が夜にまぎれる。
ちょっと不安で思わずハチーと声をかけたら、また弾丸のようにすぐそばまで戻ってきて、
何?何?
ねえちゃん
と、
呼んだ?呼んだ?
僕のこと呼んだ?って
キラキラした目で見上げてくる。
ほんまに可愛いやっちゃ。
用事ないんやったら、行ってきまっさー
と、またすごい速さできびすを返したハチがすぐに遠くなる。
すごい元気やなぁ。
ほんまにチンチンつまってたん?あの子
と、オカンがウフウフ笑いながら言う。
あの、はしゃぎようは、チンチンにつまってた石が脳みそにまわってしもたかもしれへんなぁと今やから言える冗談をあたしも言うて一緒に笑う。
夜風が田んぼの土の匂いがする。
朝の日なたの乾いた田んぼの匂いとは違う、ちょっと重い湿気を含んだ匂い。
柵にオカンとふたり並んで腰掛ける。
宵闇に浮かぶオカンのちいちゃい横顔が、いつもより青白く見える。
「ごめんな、色々びっくりさせて。」
オカンが急に言う。
「え、何が?」
遠くのハチの姿を目をこらすようにして見てたあたしはほんまに咄嗟に何のことかわかれへん。
「何がって。研ちゃんのことやん。
突然結婚するって言いだしたり、あっと言う間にうちに研ちゃんが来てしもたり。」
オカンのすまなそうな声。
オカンのこういう声にあたしは昔から弱い。
普段めちゃくちゃ明るいのに、時々子供のように心もとない顔をするときがあるオカン。
「しゃあないやん。
オカン、言い出したら絶対聞かへんし。」
「月ちゃん、また、おっとなぁな言い方してえ。」
おっとなぁと妙な節まわしが笑える。
「それに、捨て男、なんか色々事情あるみたいやしさ・・・・
今日、村上先生からちょっとだけ聞いた。」
言いながらチラッと隣のオカンを見たけど、横顔の輪郭だけで表情は夜の暗さの中でようわからへん。
「事情なぁ。
まぁ、人間、みんな誰でも事情があるしなぁ。」
と、ぽつりとした口調のオカン。
センセイからの話しを聞いて、頭に浮かんでた捨て男へのハテナを口にしてみようかと思たけど、やめた。
ほんまに聞きたかったら、捨て男に聞いたらええ。
自分の口から言いたないことは、きっと他人の口で話されるんもいやなはず。
それよりそうや、オカンに聞きたかったことがあったわ。
「オカン、捨て男のどこが良かったん?」
月ちゃん、まだ捨て男って呼んでるんかいなとオカン笑いながら、
「せやなぁ。どこやろなぁ。
やっぱりあのヘラヘラしたとこかなぁ。」
へ?
ヘラヘラしたとこ?
仏壇の父の男らしくきりっとした眉毛が頭に浮かぶ。
お父さん、あなたの元妻は今度はどうやら全然ちゃうタイプの人を好きになったみたいですよ。
「研ちゃんな、ああ見えて苦労しいやねんで。
でも一見はちゃらちゃらヘラヘラしてやるやろ?
ようさん辛いことあったやろうに、ああやって何の悩みもないみたいに見えるんは偉い子やなあって思うてさ。」
ハチを探してるんか、田んぼの遠くの方を見ながら話すオカン。
「村上先生から聞いたかもしれんけど、研ちゃんのお祖父さん、島崎さんに入院しててなぁ。
そら毎日のように病院に通うて来てやったわ。
その時から偉い子やなあと思うてたけど、一回り以上も歳が下の研ちゃんと、まさか今みたいになるとは思えへんかったわ。」
「でも捨て男は一目惚れみたいなこと言うてたけど。」
「え? ほんま?
ははは、そら光栄やわ。」
オカンの大きな黒目がちの目がくるくると動く。
面会ぎりぎりまでおじいさんの病室におった捨て男と、島崎病院の近くの小料理屋の『福耳』で、仕事帰りのオカンと何回かばったり会うことがあったらしい。
そう言えば、捨て男がオカンにプロボーズしたのも『福耳』やったって言うてたっけ。
あれ、ほんでも、今働いてるクリニックからは遠いのに、何であの日に『福耳』行っててんやろう、オカン。
島崎さんとこに用事でもあったんかな?
せやけど研ちゃん、時々泣き上戸になることがあってなぁ、ほんま子供みたいに顔ぐしゃぐしゃにして泣くん見てたら可愛いいてなあと話し続けるオカンの声が耳にひびく。
「ほんでも、付き合うてなかったんやろ?」
「うん。研ちゃんはあの調子やから、付き合うてくださいとかそんな事言うてたけど、まさか一回り以上も歳が上のおばちゃんにそんなん本気で言うてると思えへんかったし。
それにやっぱり薫さんのこと忘れられへんかったし。」
薫さんと、父の名前を慈しむように発音するオカンの唇。
「ほんだらまた何で急にその気になったん?
酔うた勢い?」
「そんなん、それまでにも二人で飲んでて酔っ払ったことはあったよ。
あったけど、あの晩はお母さん、ちょっと落ち込んでて、泣いてしもてん。」
え? 泣いたん?
何にそんなに落ち込んでたんやろ、滅多に人前で涙を見せたりせんオカンやのに。
「ほんだらな、研ちゃんがな言うてくれてん。
悲しいときも辛いときもずっと傍にいさせてください、陽子さんの人生、僕に見守らせてくださいってさ。」
それって
と、思わずオカンの顔を見る。
「そやねん。
お母さんがその昔、薫さんに言うたんといっしょのセリフ。」
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